坂本和正の考え方 -Keyword-

住まいの歴史

今も異国の住宅に憧れる日本人の潜在意識

そこはジャングルの奥深いある未開の村。なぜか日本人の若い女性が現地の人びとの群れに一人交じって踊っている。広場を囲む家々は、丸太に草葺き屋根。祭りにふるまわれた木の汁や、見たこともない肉料理を、彼女は恐るおそる試してみる。こうして、短い滞在のうちにも村人とすっかりうちとけた彼女に、やがて別れのときがくる。「また必ず戻って来いよ」と声を掛ける長老の言葉に彼女は思わず涙する。近ごろのテレビ番組で、こんなシーンがあったと記憶している方々も多いに違いない。
現代の飛躍したテクノロジーは、テレピ画面に世界中のあらゆる様子を映し出す。その視覚を通した多様な情報認識は、インターネットによってさらに加速しそうな勢いだ。以前は、写真か映画に限られていた私たちの遠い場所の視覚的状況認識が、今は変わってきた。
たとえば、テレビCMがヨーロッパの街並の中で最新の車を走らせスニーカー姿の若者がビバリーヒルズの住宅街の歩道を歩く、といった映像を繰り返すうちに、異国の家も間近にあるような錯覚をもつようになった。海外ドキュメントは、人々の脳裏にさらなる拍車をかけ、ローンを組んでまでもそこへ旅したい思いへと誘惑する。
旅行するかどうかはともかく、私たちはメディアが映す異国の住宅(とくに欧米先進諸国)の形を「自分の住まいの参考にしたい」と思い続けているふしがある。欧米の住宅はどこか進んでいて、日本のこれまでの建築は立派だが過去のもの、と簡単に片づけてしまう癖が、未だに日本人の潜在的意識の中に淀んでいるのだ。

ところで、そもそも住宅の形は、何によって決まってきたのだろう。私たちは、言葉で住様式をヨーロッパ調、アメリカ西海岸風、ハワイのトロピカル、エスニック、場合によっては日本調と容易に形容してしまう。しかし、住宅は発生の当初から形のスタイルが決まっていたわけではない。それらの飾り気や趣味の数々は、長い年月をかけてより良きものへと定着してきたのだ。
そして、この地球上で千差万別の形をした家の相違を、感覚だけに頼っていても解き明かすことはできない。まず、その地域の気候風土を考え、つぎにそこで暮らす人々のそれぞれの仕事に密接なつながりがあり、さらに共同体の制度および宗教に起因していたことを知らなければならない。

気候風土から生まれたさまざまな住様式

さて、冒頭の女性が訪れたジャングルの集落は、原始的な家の形態をしているのはなぜか。それは、彼らには生活するごく近辺の自然環境から調達できる材料でしか家をつくれないからだ。かって、アラスカのイヌイットが、氷のドームを寝所としていたのを思い起こせば容易に理解できるだろう。彼らの居住地は北極圏に近く、見わたす限りの氷原が唯一の建材料だった。さらに、石器時代のシベリアでは、マンモスの牙と毛皮で小屋をつくった証拠も残っている。
一方、アフリカ先住民は今でも草原に泥を固めた家をつくり、アラプの砂漠の民は、日干レンガの家に住む。一年中雨が降らないので屋根は平らだ。日干レンガはアラプのみならず、もともと樹木の少ない砂漠や草原で発明され、後にヨーロッパの人がその手法を取得して、現在のあのヨーロッパ的な赤い焼成レンガが生まれた。
むしろ、ヨーロッパの環境は、古くは深い森に覆われていたので、木の家が主流だったと思われる。スイスアルプス地方の木造住宅は、その原形に近い。太い木材を柱ではなく横に重ねて壁構造をつくる。今日のログハウスの原形だ。これは、奈良の正倉院の校倉造りにも一脈通じるところがある。ヨーロッパでも岩の多いところでは、石造りの一般住宅も発達したが石造りは元はといえば、城郭や神殿の石づみといった権力にもっとも必要な構築物から出発したのだろう。
もっとも興味深いのは中国の山西省、そして黄河流域に広く分布する薯洞(ヤオトン)である。地面を四角く掘り下げた地中住居は、地表を吹き抜ける風を避けるとともに寒暖の差の激しさを和らげていると思われる。今なお何十万の人々がそこに住んでいる。こうしてみると、地球上のどこでも、まず第一にその地に根差した材料で家をつくりそこの気候に最もなじむ家のつくり方をしていたのがよくわかる。
日本の昔の住宅は、日本列島が十分に樹木に恵まれていたので、自ずと木造の道をたどることとなった。屋根は雨や雪にあわせて三角形である。加えて春夏秋冬の四季があり、とくに蒸し暑い時期にあわせ、壁で厳重に家を囲わない、取り外し可能な襖や障子を備えた日本独特の住形式が完成したのだ。

住人の職業が反映された庶民の家の形

つぎに仕事との関連で家の形はどうだったのだろうか。日本の民家を調べてみてもわかるとおり、家の平面プランは確実にその住人の仕事を反映している。
農家には必ず土間があり、土足のまま台所へ通じている。夜が明けてから日が沈むまでおよそ一日中農業だけに追われていたので、農具置場、労働力としての牛や馬の家畜小屋、そして時には収穫物を保存する倉が寝床よりも重要な場合さえあるのだ。暖房は夜いろりをたいた。そして陽あたりのよい前庭は脱穀などのための作業場として広くとられている。
漁村では未明に船を漕ぎ出す生活なので、昼は砂浜、雨天は下小屋で網の手入れなどをする。
市街化した場所での商家では、土間は顧客を招き入れるもっとも大切な場であり、上がりかまちに番頭が陣取り商いをする。土間の通り抜けの奥は数々の商品を保管する倉、さらに家内工業の時代だったので、漆器、金物などの細工物、酒、菓子などの食品加工の作業場がある。商家の平面プランでもやはり仕事が優先であり一階の奥座敷は上客をもてなす所となる。仕事以外の生活の場はほとんど台所以外二階になる。
このように、ほんの一〇〇年前まで庶民の住まいは職住接近の形をとっていた。とくに農漁村では、仕事そのものが単一家族では成り立たず、大勢の共同作業となるので、同じ形の家々が同じ仕事をする集落を形成するの は、近代以前までは世界中どこも大差ない。さて、庶民はただ働きづめに機械のように生活していたわけではない。村でも街でも生活のリズムの節目ごとの祭りごとがあった。出産、婚姻、葬儀は共同体の制度を保つ大切な習わしであった。それにもまして収穫の祈願、守護神への畏敬は共同体をひとつにささえる柱であった。その祭りの儀式の後半の宴は、人びとが解放感を味わう唯一楽しい時間帯だった。
現在の日本では、祭りはイベント化され観光スポットとなり、結婚式は個人の問題に重点が移ってしまった。それでも、新築の時の地鎮祭、仏壇、神棚の位置、家の方位などを気にする人がまだ大勢いるのは、住宅がただ機能的で快適なだけでは済まされない何かを引きずっている事を裏づけている。
日本人は無宗教だとよく言われるが、キリスト教やイスラム教、その他の宗教の慣習が住まいの平面プランをどう左右しているか調べるのも興味深い。中国の風水などについては別の機会に述べよう。

自宅から仕事場が消えた現代人の住形式

おおまかだが、ここまでたどりつくと現代の2、3LDKなるものが一体何なのかも考えてみたくなる。ここでまず明らかなのは、「LDKは職住接近ではまったくない」ということである。産業革命以後の工業化社会において、歴史上未だかってなかった職域、サラリーマンや工場労働者が大量に出現した。給料取は自宅に仕事場をもたないところに着目したい。
職住が分離したことによって、住宅は家族との生活の場が主体的になった。夕方仕事先から帰宅した主人が家族に囲まれる、LDKはマイホームの夢を最もよく具現化したものといえる。さらに、このLDKの形式が、戦後一九五五年以後の高度経済成長期の進展ぴったりと符合しているのもうなずける。都市郊外の集合住宅地が続々と建設された。コンクリートの四角い高層住宅が、目新しく見えた時代である。都心に今も限りなく建設される戸建て住宅やマンションも、外装にタイルを張りインテリアリビングにフローリングを敷いて商品価値を高めていることこそあれ、あい変わらずLDKの形式の城を出ていない。もう―つは、建築技術の高度化・建材の流通拡大・エアコンディションの完備によって、住宅が必ずしも気候風土になじまない形でも成立してしまう重大な要素がある。逆の意味でエアコンディションがあることによって開口部の少ない欧米風のスタイルも、開放的なトロピカル風も和風も、何でもありを可能にしている。
住宅のその地に固有な形、住まい方の平面プランや形式的反映について述べてきたが、二〇〇〇年を迎えた今、高度経済成長期の物質主義、そして社会と家族と人間関係がこのままでよいのか、問い直されつつある。また、個人主義によって家族までもが、ばらばらになりつつある事態をふまえ、LDKに変わる形はないかを模索してみたいものだ。

ナイスリフォーム 2000年 夏号
住宅の形と形式